▼漂泊ということ 中学の頃、松尾芭蕉の「奥の細道」に出逢ってからというもの、その根底に流れる"漂泊"という想いに、なんとも言いようのない憧れのようなものを抱いていました。ふわふわと漂うようなその言葉の持つ響きも含めて、あてのない漂泊の暮らしがとても魅力的に思えたからです。 しかし、"漂泊"とは一体どういうことなのか、どんな状態が"漂泊"なのか、私が知っているわけではありません。"漂泊"と"旅"とはどう違うのか、何が"漂泊"で、何が"漂泊"でないのか。そして何より、なぜ私はそんな意味も分からない"漂泊"というものに憧れるようになったのか、どうしてもここでその答えを探さなくてはならないような気がしてきたのです。 答えがあるのか、これがその答えだと思えるようなものが果たしてあるのか、それすらも正直なところ分かりません。でも、どうしてもその答えを見つけなくてはならないのです。あるいは、答えを探すという行為自体が私にとって意味のあることなのかもしれません。 ▼まずは言葉の意味から 【漂泊】を大辞林第二版(goo.ne.jp)で検索すると、次のように検索結果がでました。 つまり、どこに根を張ることもなく、漂うようにさまようことと言えばいいのでしょうか。どこかに帰るべき家も持たず、しがらみに縛られることもなく、つまりは家族や守るべきものもない流離の身。それが漂泊ということなのでしょうか。何となくしっくりこない気がします。 それは、漂泊という行為が漂泊であると、漂泊している者が認識しなければ、漂泊する意味がないように思えるからです。人が生きているということは、例えどんなに孤独な人生と思えても、全く誰ともかかわらずに生きていくことは不可能です。何かしらの関わりがどこかにあるのではないでしょうか。その関わりやしがらみがあるからこそ、漂泊する行為に意味が発生するのだと思います。漂泊していると認識するためには、漂泊という行為を映し出す鏡が必要です。漂泊する自分を写す鏡です。それは漂泊しない存在です。それが帰るべき家なのかもしれません。ここでいう家とは、物理的な家に限りません。例え本当に家がなくとも、そこが自分の家だと感じる場所、あるいは人、もしかすると精神的存在かもしれません。そんな存在があって初めて漂泊という行為を相対化して見る事ができるのだと思います。そうでなければ、漂泊という行為を認識することはできないでしょうから。 フランスのリタイアした夫婦が、長年暮らした家を売り払ってハウスボートを作り、ヨーロッパの運河をあちこちさまよいながら日々を過ごすというテレビ番組を見ました。また、アメリカではRVを棲みかとして大陸を移動しながら暮らす一家を取り上げていました。まさに漂泊の暮らしと言えるでしょう。彼らは定住の拠点としての家を持ってはいません。しかし、だからといって世間に背を向けているわけではないのです。彼らには彼らなりのコミュニティーが存在します。漂泊は孤独のためでなく、様々な人々との出会い・関わりを求めて旅することなのかもしれません。 ▼擬似的体験としての漂泊 今すぐにでも漂泊の旅へ出たいという欲求を抑えても、その思いは様々なところから出てきます。その想いを抑えてもフラストレーションが溜まるばかりで、日々漂泊への想いは募るばかりです。そこで、ある程度の間隔をおいてこのフラストレーションを解消させる必要が生じます。その最もよい方法は、数日間の旅行へ出かけることです。 多くの場合、旅行には目的があります。仕事やプライベートで何かの用事をするため、或いは観光などレクリエーションのため出かけます。しかしそこには少なからず、日常を離れて見知らぬ土地へ行くこと自体に楽しさがあることも事実でしょう。ですから人は旅行へ行くときにそわそわと落ち着かない、しかしどこか楽しい思いに心奪われるのです。 漂泊はできないけれど、旅行することによってある程度はフラストレーションを解消することができるのではないでしょうか。私はそう思っています。 たとえば、旅行でドライブしている最中に、ふと「このままどこまでも走って行こうか」と思ったことはありませんか? あるいはホテルや旅館で眠りにつく前「朝目覚めたらどこか見知らぬ場所だったりとか…」などと夢想したことはありませんか? もしそんなことが一度でもあれば、それは漂泊への憧れの第一歩なのかもしれません。 ▼なぜ漂泊には魅力があるのか もちろん、旅行は漂泊とは違います。旅行はいつか終わりが来ますが、漂泊はその人が終わりだと思うまで続きます。その一点において旅行と漂泊は異質です。まさに「終わりなき旅」−それが漂泊の本質なのかもしれません。 私たちが日々の暮らしの中で感じる様々な制約やストレス、矛盾や妥協など、漂泊することとはまるで正反対の連続が、今私たちの置かれている状況だと言っていいでしょう。そんな日常から少しでも離れることは、私たちの精神を解放する作用があるように感じます。旅行にそのような作用が少しはあるとしても、いつか終わりが訪れる旅行は、その出発の時、既に終わったあとのことを考えてしまい、制約やストレスから完全に逃れることはできません。 その点、終わりなき旅である漂泊は、そもそも終わりということがないのですから、何の制約もストレスも、また妥協をすることなく自由にその翼を広げることができるのだと思います。故に、私は漂泊にあこがれるのです。 ここに記された幾つかの小さな旅行は、そんな漂泊できない私と妻との記録です。いつか本当の漂泊を始めるまで、このページは小さな旅行で埋められることでしょう。その時がきたら、このページは「漂泊のページ」だけを残して、閉じようと思います。なぜなら、それ以外のページは全て、制約の中にあって始めて作ることができるページだからです。 もしかすると、Beautuful Dreamerを作ったのは漂泊へ向けての助走のためだったのかも知れないと、今思っています。 2002.6.9記 ▲旅の一覧へ |
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